- 本当に育ちの良い人は○○をしている
- 本物の美人は××をしない
みたいな話がどうも苦手です。
“本当の●●”がどんなものなのかは価値観によって変わるのだから、定義のしようがないはず。それを無理やり型にはめようとするのは、なんだか不毛な感じがしてしまうというか……。
それに”本当の●●”の話って、なんとなくネガティブな文脈で使われることが多い気も。たとえば、
- いくらメイクをしたところで、“本物の美人”にはなれない
- 生きがいが見つからない自分は、“本当に充実した人生”を歩めていないのかもしれない
——などなど。偏見かもしれないけれど、とにかくあまり良い印象がありません。
ところが最近、そんなわたしでも楽しんで受け入れられる”本当の●●”との出会いが! 森茉莉さんのエッセー「ほんものの贅沢」(「貧乏サヴァラン」収録)です。
偽物の贅沢は貧乏くさい
「ほんものの贅沢」は、ちくま文庫から出版されている書籍「貧乏サヴァラン」に収録されている、わずか3ページ半のエッセーです。
内容はタイトルどおり、著者である森茉莉さんの考える“ほんものの贅沢”について。ただしその主張は、たんに物質的な贅沢を批判するような、ありきたりな綺麗ごととは全く異なります。
森茉莉さんが主張するのは、「贅沢ざんまいや浪費が良くない」ということではなくて、「贅沢だなあと思いながら贅沢するだなんて、けち臭くて贅沢じゃない!」ということなのです。
たとえばエッセーの一部を引用すると、こんな感じ↓
贋物(にせもの)の贅沢の奥さんが、着物を誇り、夫の何々社長を誇り、すれ違う女を見下しているのも貧乏くさいが、もっと困るのは彼女たちの心の奥底に「贅沢」というものを悪いことだと、思っている精神が内在していることである。
(中略)
贅沢を悪いことだと思っている人間の中にほんとうの贅沢はあり得ない。
森茉莉「貧乏サヴァラン」(ちくま文庫)
この文章を現代風に書き換えると、こんな感じになるでしょうか↓
でかでかとブランドロゴの入った服をこれみよがしに着たり、ハイスペックな夫を自慢するのはもちろんダサい。
でももっとダサいのは、「こんな贅沢していいのかな……?浪費じゃないかな……?」なんて、心の奥底で後ろめたく思いながら贅沢をすること。
初めてこの箇所を読んだとき、「なるほどたしかに?!」とめちゃくちゃに共感してしまいました。
罪悪感をもちつつ高価なお金を使うのは、贅沢じゃなくてただの「身の丈に合わない浪費」だし、そんなのってたしかに「貧乏くさい」。
森茉莉さんの鋭い指摘はさらに続いて、
贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れ物の着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。
森茉莉「貧乏サヴァラン」(ちくま文庫)
とまで断言する。かっこいい!!
全文を通して読むとよくわかるけれど、森茉莉さんは贅沢を批判するどころか、心から愛している側の人間です。だからこそ精神の伴わない、物質だけの贅沢は許せないのでしょう。
- 自慢するための贅沢
- 罪悪感をもちながらの贅沢
- 贅沢のための贅沢
などは、森茉莉さんの最も嫌うところだと思います。
高価なもの=贅沢ではない
かといって、なにも森茉莉さんは「高価な服や車を、物おじせずに日常使いできる人だけがほんものの贅沢だ」などと主張するわけではありません。
むしろ精神がゆったりと贅沢に構えているのなら、きらびやかな衣装を持っていなくても、家でゴロゴロしていようと、それは”ほんものの贅沢”と主張しています。
たとえば森茉莉さんが贅沢の例に挙げるのは、
「安い新鮮な花をたくさん活けて楽しんでいる少女」
「中身の心持が贅沢で、月給の中で悠々と買った木綿の洋服(着替え用に二三枚買う)を着ているお嬢さん」
「上等の清酒を入れて山盛りの野菜を煮る」
森茉莉「貧乏サヴァラン」(ちくま文庫)
——などなど。本人がただ豊かな時間を心から楽しんでさえいれば、その瞬間は贅沢なものになるということです。
でもこれって、簡単なようでなかなか難しい。
凡人としては、つい誰かに「あなたは今、贅沢を享受していますよ」と認めてもらって、ついでに羨ましがってもらって、初めて「贅沢してるなァ」と満足できる心もあったりするわけで……。
やはり”ほんものの贅沢”のためには、他人の評価など必要としない“ほんものの贅沢な精神”が必要なのだなと痛感します。
自分の生活を楽しむことに集中する
実際に森茉莉さんが実践している贅沢については、同じ「貧乏サヴァラン」に収録されている他のエッセーなどからも垣間見ることができます。
- アイスティーに入れる氷の質にこだわってみたり
- お刺身に添えるツマにこだわってみたり
——たしかにそれらは贅沢なことだけれど、決して身の丈を大きく逸脱することはないし、ましてや他人にひけらかすようなことでもありません。
もくもくと、当然のごとく、自分の生活が自分にとって豊かになるよう集中すること。その結果を素直に楽しむこと。
このエッセーが主張する贅沢を実践できる人間は、きっととても自立して、自然な自信に満ちた人なのでしょう。自分もぜひそうなって、贅沢を(心から!)謳歌したいものだなあと思います。
ちなみに本のタイトルにもなっている「サヴァラン」は、むかしの美食家の名前。貧乏ながらも美食を追い求める自分を”貧乏サヴァラン”と揶揄してみせるセンスからもわかるように、ユーモアに溢れたとても楽しいエッセーでした!